滝澤の推察はこうだった。通常の電子メールのやりとりは、ジムの本当のプロバイダーの正規のアドレスを使っている筈だ。がしかしYahooなどで取得できるフリーのメールアドレスは、不便ではあるが便利な点も少なくはない。簡単に取得できるが故に簡単に破棄できる。ICQのような不特定多数の人間が目にする事のできる情報の欄に気軽に書いておくには絶好のアドレスだ。都合が悪くなれば心置きなく捨て、新しいアドレスを取得すれば良いのだ。さらにこのYahooアドレスはYahooページャーやメッセンジャーなどの、ICQと同じ用途の、また違った形態のチャッティングソフトなどとの互換性が完璧にとれている。相手がコンピューターの前に現れたときメッセージをドロップしておき、チャッティングの時間を設定しあうなどは、日常茶飯事で行われている。特に異国の地に住む者同士の間では極めて経済的で便利に活用されている。ロサンゼルスに住むと言うその男と、ジムがどうやって会うこともなく親交を深めてきたのか?安田がこれから何をしようとしているのかは、そこを考えれば自ずと恐るべき回答に辿り着く。さらにその先にはもっと恐ろしい安田の戦慄の意図が次から次へ可能性として滝澤の頭の中に浮かんでくる。滝澤は自分でその考えを『まさか・・・』と否定するも、もし自分が同じ立場に置かされたら同じ事をやるのだろうかと、自分自信を問い正しいぶかしがる。
安田の行動は、案の定滝澤の推測した行動と寸分違わないキーさばきをしていった。安田は無表情にキーボードを激しくたたき続ける。プラスチックのキーボードが安田の指先の圧に乾いた悲鳴を静まり返った部屋中に轟かせている。Yahooメールにブラウザから入り込み、先ほど見たジムのYahooのフリーメールアドレスのIDを入力する。@マークの前のローマ字を入力すれば事足りる。がしかしいくらアドレスが無料だとは言え、当然の事ながらパスワードを入力しないと、安田はジムのこのアドレスの中に入って行くことはできない。安田はパスワードをさほど考慮する風でもなく入力する。当然の事ながらサインインする度にパスワードエラーとしてサーバーから跳ね返されてくる。しかし安田はそのエラーメッセージを全く気にすることなく、まるで既に自分の頭の中にいくつか存在する数値を、試し入力するかのように続ける。そう言う安田の指先を見ていた、滝澤は安田とジムと言う女との親交の深さが伺えた。がしかしそういう安田の努力もむなしく、ブラウザからは引き続きパスワードエラーの表示が送り続けられる。『チッ!』と言う安田の軽い舌打ちと共に安田は机の手の届く所に置いてあった携帯電話にサッと手を伸ばす。深く椅子に腰掛けている状態をそのままに。
「ハロー。」
「ハロー・・・安田さん?・・・・・どうしたのこんな夜中に。」
深夜の静まりかえった安田の部屋、真後ろにいる滝澤は、ジムの声を安田の持つ受話器からでもはっきりと認識出来き、おおよそジムと安田との会話を聞き取る事が出来た。
「お前の声がどうしても聞きたくて・・・・・・。」
「だって、さっきICQでチャッティングが終わったばかりじゃないの。」
「お前がロスのどこの馬の骨ともわからん男と恋に落ちようって時に、のんびり寝てられると思うか?」
「・・・・・・・。」
「切なくて切なくて・・・。」
安田の声は深く沈んだ声だった。
「やめてちょうだい。貴方からそんな言葉聞きたくはないわ。」
「奴をたった2週間でそんなに愛してしまったのか?」
「言ったでしょ。貴方にそんな事を言われる筋合いじゃないわって。そうさせたのは貴方・・・・・貴方が私にした仕打ちを自分で考えてみてよ。」
「Yahooページャーか・・・フン・・・いい大人がコンピューターの前で、身も知らぬ男とチャッティングごっこを6ヶ月も繰り返して来たってか?」
安田はジムの悲痛な安田に対する訴えを軽く話題を変えることでいなした。
「どうしてそんな事がわかるの?」
「お前のICQの情報のところにYahooのフリーメールアドレスが有った。登録日は6ヶ月程前だ。俺が去年のお前の誕生日に、何をしたかそれを思い出せば、だいたい想像は付く。」
「・・・・そうよ。彼がYahooを使ってページャーを使っていたから私も彼に従って来ただけ・・・それだけの話よ。」
「決められた時間に・・・待てよ・・・こことロスとの
タイムラグは・・・。電子メールでのやりとりではない限り不可能だな・・・。奴が仕事から帰って来る頃は、お前が職場で働いている頃だ。まてよ・・・そうか。チャッティングが出来るのは土日の
タイの午前9時10時って所だ。」
「そうよ。」
「平均して1時間くらいチャッティングをするのか?」
「関係ないでしょ、貴方に。」
時としてジムの声は毅然としていて安田を突き放す冷たさすら響く。安田に何の未練すらないかのようだ。先程安田が打った大博打、女房と離婚すると宣言すると言う発言に、大きく動揺したジムが、完全に今や立ち直っているかのようだ。滝澤は時として自分の人生の中でも多々直面してきた女のこう言う強さに、感服する。女にとって大切なのは何年つき合って来たかの過去ではなく、今がどうかに尽きる。恋い焦がれて、邪険にされ続けて来た安田が今や大博打を打って、自分に詰め寄って来ようとしている、少なくともジムに取っては場面設定としてはこの上もない状況だ。がしかしジムの言動は、毅然としていた。がしかしそれでも100%安田を完全に振り切れる事が出来るのだろうか?
「それでロスに行く決心が付いて僅か2週間で体を許すってか?」
「安田さん・・・・そう言うお話なら私これで切ります。」
「わかった、わかった・・・・。」
さすがの安田も神妙に取りなす。そして間髪を置かず、
「でもフリーメールアドレスってそんなに便利か?」
「え?・・・・・どうしてそんな事を聞くの?」
「だってICQの個人情報に正々堂々と書いておけるなんて、危険じゃないのか?」
「今まで変な事は全然起きないわよ。」
「でもお前、会社のアドレスと、お前自身のアドレスと、このYahooのアドレスと、そんなに多くのアドレスを持っていて良くパスワードを覚えていられるな・・・・・・。」
安田は無実の響きで淡々と語る。滝澤が息を飲む。安田の次の発言が手に取るようにわかるからだ。
「フリーメールはYahooだけじゃないわよ。HotmailもExciteも持ってるわ。でもそれらは、ほとんど使っていないけど・・・・・。」
「彼との絆はYahoo・・・・ここだけは頻繁に使っているって訳だな。」
「いいえ、平日は彼は私の会社のアドレスを使うわ。個人アドレスは妹や弟なども、コンピューターの前に結構座るから、覗かれたら嫌だから極力避けることにしているの。でも休みの日はパスワードがかかり、ブラウザからしか入って行けないYahooにしてるの。」
「いやはや何とも羨ましい事で・・・・。でもそんなにメールアドレスを持っていたら、さっきも言ったけどパスワードを忘れてしまう事はないのか? 全部同じパスワードを使っているのか?」
滝澤に確信の表情が浮かぶ。可憐なジムが安田の罠にまさにはまろうとする瞬間だった。滝澤はジムのレスポンスを待った。
「いいえ、全部違うわよ。でも・・・・・大丈夫。ちゃんと手帳に書いて有るから。」
「・・・・・そうか・・・・あのシステム手帳か・・・・そうだよな・・・何かに書いて置かないと・・・、そりゃ覚えていられないものな。」
「そう・・・誰も私の手帳なんかに興味を持つ人間なんていないし。」
滝澤はこれでジムの運命が崩壊すると確信した。妻子のある身だと知りながら、長年愛してきた安田と言う男の魅力に侵されてどうしても、逃れられなかった女ジム。それが安田の冷たいあしらいによって、踏ん切りが付きようやく離れられる運命が巡って来た。その相手の男は、そう言うジムを本当に心の底から癒し、彼女を暖かく包む存在だったんだろうと想像するに難くない。安田と180度違う男だったんだろうと。そのやっと手にしたジムの、そして何よりも美しさと才能を兼ね備えたジムを、まさに得んとする相手の男の、結婚をも前提にした幸せは、安田によって破壊し尽くされるに違いないと滝澤は確信した。安田がジムに電話をした目的は、ジムがパスワードを何かに書いてあると言った言葉に対する受け答えで、目的は達せられたのだ。滝澤のその感覚通りに、その安田の言葉を最後に2人の会話は急にトーンダウンし『お休み』との再び冷たい安田の声で電話があっという間に終わったのだった。
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