滝澤はパークランドの部屋のドアを開けしばし呆然として立ちつくしていた。
トラブル続出
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あの何かが始まるかもしれないと感じさせたあの新築の特殊な家の臭いは、相変わらず鼻に付いては来る。がしかし不思議とあのときの期待に満ちた胸騒ぎか起こらない。それどころかそうなってしまった今では、胸を切なくさせる、つい逃げ出したくなるような落ち着かない臭いに感じられ始める。普段靴を脱いだ場所で靴を脱がず、ぴかぴかに光るセラミックの床を踏みしめ部屋の奥へと歩を進める。様変わりした部屋の中を滝澤は無表情で観察していた。ふと窓に目をやる。窓の外からの強烈な光が閉ざされていた薄手のカーテン全面を明るくし生地を貫いて部屋の中に入ってくる。滝澤は
夜の
女性との物語が、ことごとく太陽が沈んだ後での舞台であったことに改めて思いを巡らす。太陽が
女性達を浮かび上がらせ、明るさと
女性が溶け込むシーンのワンカットがとんと記憶にないのだ。滝澤はカーテンを思いっきりひいた。今度は視界が飛び込んでくる。鬱蒼とした緑のブッシュがパークランドの裏手に広がっている。あれから滝澤がこの部屋の扉を閉めた後、この部屋ではトッブの涙がおびただしく流れたのだろうか?それとも・・・そう滝澤は考えると、今自分が間のあたりにしている風景がひどく身に染みた。トッブと一緒に不確かな幸せの予感の中で、買った冷蔵庫、テレビ、掃除機、ポット、ステレオ、そしてソファー、ドレッサー、机、椅子、スタンド・・・その全てが綺麗に部屋から運び去られていた。滝澤のコンピューターも全て消えていた。これから毎月金を支払い続けてやると言う滝澤の言葉をトッブは信じなかったのか、それともトッブの親族が娘を捨てた男への腹いせでそう言う所作を決行したのか。がしかし滝澤は至極穏やかだった。それが自分がトッブに対して行った罪滅ぼしになるのであればそれで本望だと心の底からそう思えたからだ。毎月金を支払う予定日に後2日と迫った中で、略奪を敢行したところに何らかの意志が表示されていた。あと2日待って銀行口座に滝澤から金が振り込まれるかどうかを確認してから、トッブはアクションを起こせばよかったのだ。もっと性悪説的に考えれば、その両方をとることでも出来たはずだった。滝澤は携帯電話を取り出しトッブの番号を打ち込む。
「ハロー。」
「・・・・・・・・。」
「ハロー。」
「・・・・・・・・。」
その時滝澤の耳元にはトッブのバックに流れていた音楽のボリュームが俄然大きくなった、到底会話をしていられる様な音量ではない。トッブの沈黙の間に周りで数人の人間達がざわめいている音が滝澤には聞こえた。滝澤は心の中でつぶやく。『それでいい。それでいいんだぞ。』そしてゆっくりと携帯電話のオフボタンを押して切った。滝澤がいなくても楽しい日々は送れる。車で誰か友達と遊びに行く事も出来る。そして滝澤と話をしたくなければそして、言葉で辛辣な内容を滝澤に浴びせるのが嫌ならば、略奪と言う明らかに法に触れる方法を自分が敢行したのを責められるかも知れないと怯えるのなら、そう言う方法もありだと滝澤は考えた。受話器を足下の車のスピーカーの位置に押しつけカーステレオの暴力的な音楽を携帯電話に伝えればいいのだ。滝澤はそのトッブらしいやり方に思わずほくそ笑んだ。
部屋に入るときから右手に握っていた用紙を、今や何もおくところのない部屋のベッドの上にそっと載せる。滝澤のサインのされたその紙は不動産の引き渡し証だった。その書類の上に部屋の鍵をそっと乗せる。鍵の重みで薄手の紙がマットレスにたわむ。滝澤はラマ5世の額が掛けてあった場所、そして聖母マリア像が描かれている額が置いてあった場所に視線を向ける。短い2人の生活だ、額がかかっていた所とそうでない所で色が変わりようもない。滝澤は少し慰められるものがあった、あの壁の色が変わってからここを出てゆくような事になっていたら、自分にとってもトッブにとっても人生の痛手は遙かに大きい物だったに違いないと。そう思うことがせめてもの心の慰めとなる。滝澤はラマ5世の肖像が祭られていた場所に向かって、ゆっくりとしかし丁寧にワイ(合掌)をした。その仕草は滝澤が
バンコクに来て決してやろうとしなかった所作だった。目を閉じて胸元で両手をあわす。胸の鼓動が早くなる。拝む滝澤の胸中には、滝澤が
バンコクで出会った
女性達全員の仕草が猛烈な勢いで去就するとともにそれは滝澤に鳥肌をたたせた。その瞬間滝澤は自分が一番恐れていた事で、決して認めたくなかったあることを受け入れようと決意した。それは自分がもう二度と心から
タイ人
女性を愛することが出来ないかも知れないと言うものだった。数年で多くの
タイ人
女性と出会い心の底から彼
女たちを愛し続けてきた。その情熱は誰にも負けない自信があった。しかしたどり着く所はいつも一緒だった。自分の力ではいかんともする事の出来ない大きな壁にはね返される。それはどうしても越えることの出来ない果てしない壁。陽炎のように自分では見えた積もりが、全く見えていないその
女性達の実体に、常に一人で踊らされて来た。あげく滝澤は例外なく全ての
女性を失って来た。それが今まさにはっきりと見ることが出来るような気がして来たのだ。またそうは言う物の人間の下半身の持つ本能がそう言う屁理屈を木っ端微塵にしてしまう事だってある。一時の情動が狂った
夜を演出する事もある、同情で心を寄せることもある、しかし少なくともこれから先、自らの全霊を傾けて
タイ人
女性を愛する気にはならないとの静かな自信が確立し初めていた。世界で一番美しく魅惑的でやさしい
タイ人
女性、その素晴らしき
女性達を愛す事は無いという衝撃的な予感、そしてあろうことかそれでも構わないとのすがすがしい気持ちが漲る。滝澤は小さくうなずいてつぶやく、『それでいい、それでいいんだ。』と。そして・・・滝澤は今度は誰も中に残さないアパートの扉をゆっくりと閉めた。
完
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